言い訳としてのチューニングと相対化 ー9/3の日記ー

昨日の今日で、友人とご飯を食べに行ってしまった。
一応自分に弁解しておくと、カウンターでラーメンを食べただけ、しかも二郎系の店だったので店内であまりペチャクチャと喋るような雰囲気ではなく、相対的にはリスクは低いはずだ。もっとも実際のところは、もう流石に断るのに疲れた、というのもなくはないかもしれない。というか、大いにあるだろう。

友人とは短い時間でだいぶ色々な話をしたが、聞くとやはりもう結構出歩いて遊んだり、食事しに行ったりしに行っているようだ。人の心というのは勝手なもので、そんな友人の話を聞くにつれ、別に状況は全く変わっていないのに、会食に対する抵抗がどんどん薄れて、飯ぐらい別にいっか、という気持ちが膨らんでいくのを感じ、我ながら呆れる思いがあった。

しかし一方で、これはある意味で社会と隔絶している間にずれてしまった感覚のチューニングといえなくもないのかもしれないとも考えた。もちろん警戒が引き続き必要な状況で、周りに流されて軽率な行動をとるのが正しいとは思わないが、そういう部分も含めて自分の考え方をある程度相対化して省みることも必要だろう。周囲と断絶した状態で自分の判断だけを絶対視するようになれば、たとえいっときの判断として正しかったとしても、社会状況の機微に対応するのは容易ではない。やはり、最低限の交流は絶やすべきではないのだろう。

来月からはまた少し環境が変わってリスタートになる部分もあるので、そこそこに人との交流も持ちながら、一方で自分の信念というか、正義のようなものも大切にしながら、やっていきたい。

 

<今日の再発見>

やっぱり図書館は集中できる。