難しいね ー9/2の日記ー

最近、立て続けて複数人からご飯の誘いを受けた。「第二波」とも言われる7月以降も普通に通勤やら外出やらしている人は随分多いと聞くし、もしかすると世間的には警戒感はだいぶ薄れてきているのだろうか。あるいは、私があまりにも世間と隔絶して生きているので心配してくれているのかもしれない。

いずれにしても、今のところこの手の誘いは断っている。まだ警戒を緩めてよい時期ではないだろうし、「自分が無症状の感染者だと思って行動する」という原則に照らせば会食はかなりリスクのある行為だと思っている。
しかし最近、この考え方だとまだ当分人と会えないのでは?という気がしてきた。また6月のような小康状態になったとして、この考え方では会食すべきでないというのは変わらないよなぁということだ。いや、おそらく間違ってはいないのだと思う。対策が奏功して一時的に状況が落ち着いたとして、その落ち着きはまさにその対策に起因するのだから、流行が落ち着いたからといって警戒感を解いたらもとに戻るだけだ(実際に7月以降そうなったわけだし)。警戒心を持ち続けるのは必要なことだろう。ただ、そういう理性的な判断とは別次元の感情として、流行が落ち着いてるならいいのでは?という気持ちもどこかから湧き上がってくる。おそらくワクチンや治療薬が確立するまでは波を繰り返して、そのあいだ中会食を避けるべきなのは変わらないのだとしたら、世間的な風当たりの強くないタイミングで行っとくのが吉なのでは、と思い始めている。この辺りは自分の中の正義にどれぐらい忠実に生きるか、生きられるかという話に究極的にはなってくるわけで、芯の通った生き方というのは思ったよりも難しいなぁと思ったりしながら生きている。

あとは、向こうから誘ってくれたのを断るのは申し訳ないし、小難しいやつだな、と思われていないかという不安もある。これに関しては、もうこういう性格に生まれついてしまった以上どうしようもないのだけれど、特に付き合いの長い人ほどこういう生真面目な部分は出しにくくなってしまう。これもまた、難しい話だ。

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今まで正面からコロナの話はしてこなかったけど、記録という意味でたまには考えてることを書き留めておくのもいいかなと思い、今日はこんな内容にしてみた。

 

<今日の後悔>

夕飯の買い物に行った時に一度刺身を取りかけたものの「刺身の気分じゃないな」と思ってやめた。家に帰ってきてから、どんどん刺身が食べたくなった。

8月の総括 ー9/1の日記ー

八月が終わったので、1ヶ月の振り返りをしておこうと思う。

月が始まって最初の1週間は、随分と日記を書くのに苦労した。読み返してみると(完全に破綻してしまった6日の分を除けば)あまり目立った苦労の跡はないが、書きたいことがうまくまとまらず、呻吟しながらなんとか書ききったという感じだった。
毎度こう苦しんでいると日記が続かなくなるな、と危惧を抱いたので、その後は意識的に軽い、書きやすいテーマを選んだりして、徐々にペースを取り戻していった。ただ、自分の中の言語化できていないものを言葉にする、というこの日記の第一目標に照らせば、あまり軽くしてしまうのも考えものなので、その辺のバランスはうまく取りながらやっていければと思う。

日記に書いていないような日常生活についていえば、「やるべきこと」がほとんどなく、「やりたいこと」をやる時間が多かったひと月だった。しかしまた、「やりたいこと」をやるのにも意外とエネルギーがいるとわかったひと月でもあった。読みたかった本や、やりたかった謎解きなんかも色々とあったのだけれど、結局「別にやりたくはないけどエネルギーが要らないこと」に時間を吸い取られてしまうことも多く、思っていたほどやりたいことに時間をかけられなかった。この辺りの反省は長い休みがある度に思っていることで、毎度自分でコントロールしなければと思っているのだけれど、やはりなかなか難しい。

さて、月は変わって9月である。とはいっても生活は特に変わらず、同じようなスローペースな日常がもう1ヶ月続く。しかし、東京の感染者数は徐々にピークアウトしているような兆しも見えるので、もしかすると今よりももう少し人と会いやすくなるかもしれない。いずれにしても、あまり社会との隔絶を深めすぎないようにいきていかなければいけない。

 

<今日の偉業>

掃除、洗濯、ダンボールをまとめる作業、キッチン用品の買い出しなど、予定していた用事を全て済ませることができた。

リズムを崩す日 ー8/27の日記ー

八月に入ってからある程度リズムを固定して生活してきたが、それにそろそろ飽きが来ているぞ、というのを何度か書いた。その中で、何か刺激が必要だろうということに思い至ったので、今日は普段の日課はお休みとして、いわばセルフ休日として過ごすことにした。
とは言っても全くの無予定では一日何もせずに過ごした結果、無為に過ごしたことに対するストレスが溜まってしまうだけので、前日に割としっかりと予定を組んでおき、それを忠実に遂行した。

まずは朝9時に起床。PM起きが常態化していたここ最近から見ると、これは立派な早起きだ。朝の支度を適当に済まし、10時前ぐらいに家を出て、ラーメン屋に向かった。歩くと20分ほどかかる距離で、しかもその後開店前に30分以上待つ予定だったので、あまり暑いと大変だなぁと思っていたが、幸い気温はそれほど高くならず、少し汗ばむくらいで済んだ。目当ては珍しい二郎系の冷やし中華。開店の30分以上前に到着したにも関わらず、すでに10人以上の列ができていた。開店時には30人前後ぐらい並んでいたと思う。幸い一陣目で入店することができたので、それほど待たされた!という気持ちになることもなく(人が食べているのを横目に見ながら待つのが一番辛い)、美味しく食べることができた。思えば、「行列ができる人気店」というのに一人で来たのは初めてかもしれない。早起きした甲斐があった。

その後は本屋へ。二軒をまわって、今日発売のきららの新刊と、きららMAXの最新号を手に入れることができた。これはまたゆっくり読もう。

帰ってくると、注文していた「究極の謎本」が届いていたので、早速数問挑戦。流石に解きごたえがある。このシリーズは2の方を先にやったのだけれど、そちらは何人かで通話を繋ぎながら同時に遊んだので、わからないところが出ると仲間にヒントを求めたりできた。対して今日は完全に一人で挑んだので、全く助けを求められない。ただそれは裏を返すととことんまで一人で考え抜けるということなので、それはそれで面白い。2、3時間かけて3問しか進まなかったけれど、やはり一人で答えまでたどり着くと達成感が段違いだ。この快感がまだなんども味わえるとなるとワクワクするが、それを味わうにはまず何倍もの時間苦悶しなければならないのが辛いところだ。

さて、涼しくなった頃合いを見計らって図書館に向かった。本を返し、新たな本を借り、いつも通り新聞を眺めて帰宅した。その後は夕飯を食べ、シャワーを浴び、今に至る。

いつもと違う一日を過ごしただいぶリフレッシュできたし、隙間時間で楽しめるマンガと謎解きも買ったので、またしばらく頑張れそうだ。1日1課ずつ進めているイタリア語の問題集が終わった段階でまた休日を作ろうと思っているので、そこまで頑張ろう。

 

<今日のMCバトル>

https://www.youtube.com/watch?v=xnsIVtKbXEY

チケット買ってアーカイブ見たやつがYouTubeに上がった。power wave、かましてるな〜。

無 ー8/26の日記ー

日記に書くことが何もない。

ここ最近特に何もしていないし、加えて小難しいことを考える気力も、それを言葉にする気力もあまり起きてこないので、本当に書くことがなくなってしまった。これまでは、そうは言いつつもパソコンの前に座ると何か思いついたりしたのだけれど、今日は本当に何も浮かばない。毎日続けなければ、という義務感だけが今、タイピングする手を動かしている。実際に誰かに書くことを強制されているわけではない以上、その義務感も結局のところは「感」に過ぎないのだけれど、この自分のためになると考えて自発的に始めたことを続けようとする、いわば「自律欲」のようなものを無視しだしたらもう堕落への一途を辿る他に道はない気がするので、ギリギリのところでくじけずに書いている。

考えてみると、自分はこの「自律欲」というか、自律というものへの憧れが強い気がする。もともと武道をやっていた影響も大きいのかもしれないが、人間としての芯をぶらしたくないという気持ちが強いのかもしれない。これは良い面も悪い面もあるだろうが、まあ概ね良い傾向だと思うので、これからもこの気持ちに忠実に生きていこう。

 

ふぅ、なんとか様になる長さにはなった。
まあ今日のところはこれでよしとしよう。明日はそれなりに書くことがあるはずなので。

 

<今日のワクワク>

明日は「むすんで、つないで。」の1巻と「海色マーチ」の2巻の発売日だ。

お金を使う ー8/25の日記ー

最近になって気づいたことの話。

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私はお金を使うのが下手だ。
すぐに妙なものにお金を使ってしまう、という意味ではなく、なかなかお金を使えない、ということだ。

今月は労働を頑張ったのでそこそこお金が入るのだけれど、なかなかそれを使えないでいる。今月の収入から生活費を引いたものを今月自由に使えるお金だとすると、あと1週間足らずで月も変わると言うこのタイミングで、まだそのうちの4分の1程度しか使っていない。まあ残りは貯金に回るわけで、別になくなるわけでもないからいいのだけれど、やはりこの性格は損をしている気がする。

何か大きな買い物をする時には当然熟慮する必要があるだろうが、1000,2000円ほどの買い物でもかなりためらってしまうことがある。結果として欲しいものを買う機を逸してしまうこともしばしばで、これはやはり勿体無い。あるいは、生きていくのに必要な生活必需品の類についても、怠惰な性格も相まって「なしで生きていけないこともないのでは?」となってしまうこともある。(この思考の結果として、風呂場の電球が切れたまま2ヶ月近く生活していたこともある。)

お金を使うのに慎重、といえば聞こえはいいが、ここまでくるとこれはただのケチなのでは、という気がしてくる。ただ、自分に対して自分で弁明すると、これはケチというよりも、生来の過度な心配性のせいなのだと思われる。

生活のあらゆる場面で顔を出す心配性な側面がここでも現れて「ここで今お金を使ってしまって、もしもこの先どうしても必要なお金が足りなくなったらどうしよう」という考えが、お金を使おうとするたびによぎるのだ。他人から見れば空が落ちるの心配しているようにしか見えないかもしれないが、私にとっては切実な問題である。

かと言ってこのままでは損というか、楽しいことを逃し続けて生きていく事になる気がする。もちろん無計画に散財する人生がよいとは思わないが、心配をうまい具合に飼い慣らして、そこそこ楽しいこともしていきたいと思う。

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↓こんな性格を打破するため、今日は思い切りよく買い物をしたりもした。

 

<今日の買い物>

SCRAPの「究極の謎本

久々の館 ー8/20の日記ー

今日の日記は、綾辻行人十角館の殺人』のネタバレを含みます。
この日記は普段自分以外の読者を想定して書いているわけではありませんが、インターネットの海に放つ以上いつ誰が読むかわからないので、一応注記しておきます。

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数年ぶりに『十角館の殺人』を読んだ。
友人が読んで大変面白かったと言っていたのを聞いて、そういえばうちにもあるな、と久しぶりに手にとってみたのだが、これがまぁものすごく面白かった。一度読んだことがあり、その時に受けた衝撃ゆえに大枠のトリック自体は覚えていたのだけれど、それでも問答無用で作品世界にひきずり込むような、何か強い引力のようなものを持った作品だった。

この引力の源は一体何だろうかと考えると、やはり一番はその文章にあると思う。
決して高度に文学的だったり難解だったりするわけではないのに、文章に独特の凄みがある。これが胸を衝くような切迫感と息が詰まるほどの焦燥感を駆り立て、作品全体が「作品世界から距離をとって眺める」ことを許さないような緊迫感を纏っているように感じられた。お決まりの「私は部屋に帰らせてもらう!」的展開もあったが、そこにはあるあるとして茶化す隙は一切なかった。

内容については、新本格派には「人間がかけていない」という批判はつきもの、というのを読んだが、この作品はむしろこの「人間」というもののより根本に迫ろうとしているのではないか、と感じた。確かに、個々の登場人物については多少記号的な感もあるが、真犯人のモノローグ形式で「神」や「審判」について言及するプロローグとエピローグで本編を挟むことで、個々の違いなどは排した上で、その上でも逃れられない、何か根本的な「業」のようなものを浮かび上がらせているような気がした。

続きのシリーズも何冊か揃っているので、またタイミングを見て読もうと思う。

 

<今日の怠惰>

久々に午後起きをした。